気が付けば夜はすっかり更け、月は高く上っている。いくら明日が休日で、今日は夜間哨戒がないとは言えそろそろ眠らなければいけない時間だ。みなが寝静まり、私が奏でていたピアノの音もなくなったミーティングルームはがらんどうで、窓も扉も締め切っているはずなのにどこからか冷たい風が吹いているような気がした。 伸びをしながら立ち上がる。黒光りする鍵盤のカバーをそろりと閉めながら、いったいどれだけの時間を彼女と過ごしていたのだろうと考えた。幼いころから親しんだ実家のあの子はネウロイの侵攻によってきっと喪われてしまったのに違いない。けれども楽器にも魂が宿っているというのなら、私のいるところに、お父様のいるところに、きっと半分に分かれて宿ってくれているのだろう。ひんやりと冷たいだけのはずの白磁の鍵盤からどことなく感じる不思議なぬくもりを思うたびに、私はそんなことを思うのだ。 最後に一度だけ彼女をひとなでする。背の大きな羽を閉じた彼女は花に止まって羽を休めている大きなクロアゲハのよう。開いたときの美しさもつばを飲むほどのものだけれど、こうして閉じて奏でると普段よりもまあるくてやさしい奏でを与えてくれるのだ。 「…エイラ」 そして、唐突に呟いた。送る視線の先にはぼんやりとした灯りがある。辺りが暗がり始めたころに現れたネウロイを撃墜するために出撃したエイラがお風呂から上がってくるのを待ちながら、私はピアノを奏でていたのだった。願うならどうか、疲れ果てたエイラの体を私の音楽で柔らかく包んで憩わせてあげられるよう。実際それを本人に伝えることはできなかったけれども、みんなが自室に戻ろうとする中、ピアノの前で一人言いよどんでいる私を見やってエイラは笑って「ありがとう」と言ってくれたから。言葉にしては言わなかったけれど、エイラには、エイラにだけは、届いていると信じたかった。 かくして、月明かりだけが差し込む部屋の真ん中辺りには、ランプから放たれたひとつの円やかで暖かな色をした光があって。私はそこにエイラがいるのだと確信していたのだ。 「…えいら、」 そろりそろりと灯りのほうに近づいてゆく。ソファの向こうに見える影は身じろぐそぶりを見せずそこにあった。光の加減で金色にも銀色にも見える髪だ。私の持つものよりもやわらかな輝きを持った銀色。私の大好きな色。 「…えいら?」 確認するように回り込んで、彼女の前に立った。そしてふっと息をつく。口元が緩むのはいとしさが募るからで、それは目の前にいるひとがまるで子供のような顔で眠りについているからだ。くう、くう、とまるで子犬の子供のような鳴き声をかすかに立てて、読みかけていたらしい小難しい本を取り落としたそのままに。ゆっくりとしゃがみこんでそれを取り上げてよく見るとストライカーの構造について詳説した本らしかった。物語や楽譜といったごく限られたものばかりに目を通す私と違って、エイラは意外にどんなことについても好奇心旺盛なところがある。タロット占いのような不確かでつかめないものを好む反面、時計やストライカーといった確かな形を持った物質を取り扱うこともまた、趣味の一つであったりする。それは一見するととても奇妙な光景で、もしかしたらそれが、部隊でもエイラが「不思議ちゃん」と囁かれる一因なのかもしれない。 (えいら) 四回目の呼びかけは、胸の中で呟くだけにした。よく眠っているようだから口にしても多分エイラは目を覚ましたりしなかったろうけれども、それでも今、穏やかに眠りにつく彼女のそのひと時を私は邪魔したくなかったのだ。なにより、普段は私が彼女に寄りかかって眠っているばかりで彼女の安らかな寝顔を目の当たりにできることはとても少ないから。だからほのかに温かなランプの揺らめく光に照らされているエイラのきれいな顔を、今私はゆっくりと堪能することができるのだった。 ぬくもりを分けてもらうように、傍らに寄り添って座る。綿素材のパーカーを寝巻き代わりにするエイラに寄りかかると、衣服越しからもそのぬくもりを感じ取ることができた。首を伸ばしてエイラの顔を見る。どこまでも無防備だ。 * 気がつくとそこは、真っ白な世界だった。空も、陸も、一面白で覆われた世界。吹きすさぶ風は冷たく体の周りを取り囲んでは行過ぎてゆくのに体は一向に冷え込んでいかない。ああ、これは夢なのだと気がつくのにそう時間は掛からなかった。 一歩足を上げて踏み込むと、きゅ、と小気味良い音が鳴る。風に混じる白い粒は手を伸ばしてつかもうとするとすぐ透明になって消えてしまうから、雪なのだろうと思った。ならばこんなに風が冷たいのにも納得がいく。ここは夢で、だけど冬で、雪が降って、だからこんなにも真っ白なのだろうと。 「そこでなにしてんだ?」 不意に後ろから声が掛かった。幼い高い声だ。けれどもなぜか妙に懐かしい、抑揚の無いその声音。思わずばっと振り返る。 「──あ……っ」 長い髪が白い光にきらきらと輝いている。一見すると銀色なのに、光の加減で柔らかな金の光も反射する不思議な毛色。まるでおとぎ話の女神を目の当たりにしたかのような感覚に陥って、はっと息を呑む。もしくは、目の前に突然光が差して天使の子供が舞い降りてきたかのような。何か言葉を紡ぎたいのにうまく言葉にならなくて言いよどんでいると、無表情に近かったその顔の眉がひそめられて、かすかに不機嫌そうな色合いを見せた。その顔さえどこか愛嬌があるのだから、子供というのはずるい。自分も大差ないじゃないかと言われたらそれまでだけれど、それとこれとは話が別だ。 「あの、あなたは」 見慣れない薄い水色の衣服を身にまとって、彼女はぶしつけに言う。こちらが自分をどう思うかなんて心底どうでも良いといったような物言いだ。もっとも、実際のところそうなのだろうけれども。その雰囲気に気圧されてしまって、私はまた黙り込む。息を飲み込むと、どうしてだろう。いいかけた言葉までも喉の奥へと消えてしまった。頭をよぎった、彼女ととてもよく似た雰囲気を持った、私の大事な大事な人の名前さえも。 「……な、なんで泣きそうな顔すんだよ。ねーちゃんもしかして帰り道わかんないのか?私の基地までつれていってやろうか?」 なぜだろう。その人は私にとってとても大事で、大好きな人のはずだったのに今は名前も、姿さえも思い出せない。大切なものが頭からぽっかりと抜け落ちてしまった感覚の寂しさに目頭が熱くなる。唇を軽くかみ締めたら、私の胸の辺りにある顔が明らかな焦燥に変わった。必死でごめんな、とかどうしたんだ、だとかいいはじめるその仕草にまた誰かを思い出して、寂しくなると同時に少し噴出してしまう。ぶっきらぼうだけど、優しい子なんだわ。そう思うと愛しささえ湧く。ぎゅうと抱きつきたいくらいの衝動が胸を衝いたけれどそれをしたらきっとこの子はびっくりしてしまうだろうと思ったからそれをしなかった。 「わ、わらうなよっ。…ったく、人が心配してやってんのにさぁ…」 また口を尖らせる、子供らしい無邪気な素振り。私はほとんど言葉を発していないのに、どうしてか通じ合っている気がする感覚。思わず顔をほころばせる。すると照れくさそうに笑ってくれるから、何だか私も嬉しくなる。 「えと、私は──まあ、名前は長いからいっか。とりあえずイッルって呼んでくれよ。これなら覚えやすいだろ? 泣きたいような、笑いたいような、不思議な気持ちを抱いたまま、どんな顔をすればいいのかわからずにいたら、『イッル』と名乗ったその子の手が伸びて私の手を包み込んだ。いつの間にか冷え切っていた手にぬくもりが差す。何だかとても泣きたくなる。 「う、うん──ありがとう─」 ばっとその子の目が見開かれて、私の手を温かく包み込んでいたその手がパッと動いて私の手首を引っつかむ。そして意外なほどの力強さでもって私の腕を引いて伏せさせたその瞬間、パッと視界がいっそう光り輝いた。それと同時に頭上を通り過ぎる、黒い影。 (ネウロイ…っ) 私の頭によぎったものと、イッルが口にしたのは全く同じ単語だった。黒い色をして、巨体の一部を不気味に赤く光らせる、異形の怪物の名前。私の大切なものを、めちゃくちゃにしたもの。 「──ねーちゃんは、そこにいて」 気がつくと彼女はストライカーをはいて、やはりその体格に似合わない機銃を背負い、私の前に立ちはだかっているのだった。そして振り返って、安心させるかのようににこ、と笑う。
(だめ、だめよ、イッル) (ちがう、ちがうの)
そして。 「ねーちゃん、だいじょうぶかー?」 降り立つときは、ゆっくりと。夢の中だからだろうか、その瞬間、彼女の身につけていた武器やストライカーはまた、どこかへ消えていってしまっていた。そのときになってやっとはた、と気付く。そうだ、これは夢のはずだ。誰の夢?私の夢?それとも── 「ん?ねーちゃんどうした?」 (えいら) 答えは意外にもあっさりと訪れた。一番最初に浮かんだその名前を頭の中で呟いたとたん、間違いないと直感が告げたからだ。 「えいら…っ」 わたしは、ウィッチだからな。 「エイラ…っ…」 エイラだというのなら、なんて悲しいことなんだろう。だって情熱がどこにもないのだ。淡白な瞳で以って、ウィッチだからというだけの理由で空へと飛び上がる。傷つくかもしれないことも、死ぬかもしれないことも、恐れないで。 「さっきなくなっていったじゃん!ななな、なんで泣くんだよ、ねーちゃん!あとなんで私の名前…」 少しうつむいて、悩むエイラ。うー、と唸るけれども、答えはいっこうに表れない。しばらくして、困ったような顔で顔を上げてエイラは言った。 「そんなこといわれたって、私はウィッチだから…だから、戦わないと。私、他に何にもないけど、私なら出来るってみんなが言うんだから、しかたないじゃん」 だめだ、もう、こらえきれない。 不意に、風の匂いが変わった。辺りが暗くなって、さすような冷たい風が、真っ白な景色が、穏やかな暗闇に溶けてゆく。ほわん、と浮かび上がるまあるい光。温かい色。 「…さーにゃ?…泣いてるのか?」 落ち着いた声音が、私の耳に届いた。私の良く知る彼女のそれと同じ、まるで小さな子供をあやしつけるかのような、その口調。なくなよ、サーニャ。もう一度耳元で囁かれて、細くて長い指が私の後頭部辺りをポンポンと撫でる。 「あの、サーニャ、違うんだ、違うよ。今は──」 抱きしめ返してくれるエイラの腕の感覚が心地よい。彼女が何かを言い掛けたのにも気付かず、私は再び意識を混濁の中に溶解させていった。 * ちゅん、ちゅん。 「起きたか、サーニャ」 顔を上げると、そこには柔らかな笑顔を浮かべたエイラがいた。夢の内容がフラッシュバックされて、妙に恥ずかしい気持ちになってうつむく。けれどその先はやっぱりエイラの腕の中。綿の感触が快くて、顔をついすりつけてしまう。 「不思議な夢を見たんだよ、サーニャ」 そんな私を優しく抱きとめながら、エイラが歌うように言う。どんな夢?と口にすることなく問い返すと、うひひ、という意地悪な笑い声。何だかちょっと腹が立ってしまって、もう一度胸に顔をすりつけてしまう。 「守りたいもの、誰だってあるから。私にも、さ」 だから、大丈夫だよ、今は。 「うん…」 寝ぼけ眼の私を抱き上げて「部屋まで送ってやるよ」なんていうエイラの胸にまた顔をうずめながら、今日もまた、一日エイラの部屋でエイラと一緒に過ごそうと思った。
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