「……なんでよけないの」
ひどいと思った。まるでかたまっていたこちらがわるいとでも言いたげに、そんなふるえたてのひらで無責任なことばをなげかけられる。私の手にすがる指先はびっくりするほどあたたかくて、どこかで心地いいと思っている自分にはもっとおどろかされるほかなかった。 私はハルトマン中尉のことをなにもしらない。隊のエースで、そのくせ私生活は壊滅的に自堕落であること。だれもがさらりと平気で口にできるような、そんな事実しか、私はしらない。
「ねえ」
昼下がりの中庭はふわりとあたたかい。いつもどおりのおだやかな空気が私とマリーゴールドをつつんでいて、そのはずなのに先程からひとの顔をとなりからのぞきこんでくるひとがいるせいでひどく心地がわるい。ねえったら。そよそよと耳のそばをながれていく風のようなひびきが語りかけてくるけど、私にはそれを完全に無視する以外の対処法が思いつけない。ぱちぱちとまばたきをする気配、こちらがだまっているうちにも、ふうんとかへえとか、よくわからないつぶやきがしきりにとなりからきこえてくる。
(なんなの、わけがわからない)
今朝の信じられない情景は、もしかしてただの夢だったんだろうか。ざわりと胸がさわいで、原因のわからない動揺がいまにも顔にでそうだった。こんなのしらない、私はハルトマン中尉のことなんてなにもしらなくて、だからなにもかも、どうでもいいはずのことなのに。見おろすマリーゴールドはきのうのとおりにこんなにかわいらしいのに、きょうの私はまるで奇妙な思考回路をしていた。
「まだおこってる?」 「……まだ、ということは、いつかはゆるさなくちゃいけないの?」
不快さをかくすつもりもない口調で言ってみても、中尉はぱちとまばたきをしてちいさな舌をぺろりとだすだけだった。それに気分がわるくならないはずもなくて、私はにげるように花壇のそばにしゃがみこむ。しかしその甲斐もなく、予想どおりにそのひとは私をおいかけてひざをおるのだった。 今朝、ふしぎな光景を見つけた。早朝に坂本少佐の訓練にごいっしょさせてもらおうと廊下をかけていたところ。見なれぬ人影、いやたしかにそれは毎日顔をあわせているひとにちがいなかったけど、この時間にそんなところにいるのなんておかしいのだ。思わずたちどまって、すこしはなれたところから観察してしまう。するとこんなに朝早くに目をさましているなんて信じられないハルトマン中尉が、あっさりと私に気づいてしまう。そこでやっとはっとして、私は早足でまた廊下をすすむ。自室のドアのまえでたちすくむ中尉、そのひとをとおりすぎるその瞬間だった、ひょいと、おかしなほどにやわらかいうごきが私の手をとってしまうのだ。
(わたしには、双子の妹がいて)
ぼんやりとした口調が唐突な話をする、私をひきとめたそのひとが、なにも見ていない目がこっちをながめている。寝ぼけているんですか。ぎょっとしてしまってしかたのない私がそうやっていくらでもつっかかれる場面、それなのに私ときたらかたまることしかできない、だって、あのハルトマン中尉が、いまにもなきそうに目じりをふるえさせていたんだもの。……ゆめを、みて。支離滅裂な説明、台詞とはうらはらに中尉は本当にまだ夢のなかにいるみたいだった。それはそうだわ、だって、いまはまだこのひとがおきてちゃおかしい時間で、こんなふうによわよわしい声をだすなんてもっとおかしくて。
(ウーシュは、きれいな金髪で、わたしがさわったら、よくわかんない顔をして)
とおい目が、至近の私を見つめている。とんと中尉が一歩よって、それなのに私はあとずされないまま。ペリーヌも、きれいね。つめたいくらいにはっきりとした発音、それなのに、つぎの瞬間に唇にふれたやわらかさは、なきたいくらいにあたたかかった。 どうしてあんなこと、なんてきけるはずがなかった。よけられなかった私は、私以上に呆然としているおかしなことをしでかした目のまえのひとに手をにぎられるままずっと立ちつくすことしかできなくて、ふたりしてぼうっとしたままどれくらい廊下にいたのかもわからない。数十秒だったかもしれないし、何分もたっていたかもしれない。だけど、そんなことはどうでもよかった。
「……あの」
ふと、ひかえめな声がする。ぎくりとしてしまって勢いをつけてとなりに顔をむけると、私のそんな動揺には気もとられないで中尉は花壇をながめていた。無表情の横顔、気味がわるい、そのようすにこんなにも胸がいたくなるなんて、気味がわるくてしかたがない。
「今朝のこと。トゥルーデにはひみつだよ。ああ見えて、すぐになくんだ。いつもあんなにえらそうなのにね」
いたずらっこのような台詞が朝のことにふれて、ああやっぱり夢じゃなかったんだなと思う。ただし、こんどはいまこの瞬間が夢のなかのようなふしぎな気分になった。ひそかにとなりのひとのほほが染まって見えた、からかうような口調で、そんなにしあわせそうにだれかの話をする。 ハルトマン中尉のまえだとそんなふうになるんだ、と思った。なんの話かといえばバルクホルン大尉の話で、きょうずっと気づけは中尉を目でおいかけていたせいでいままでしらなかったことがいくつか見えた。いつもかたい表情をしている印象のあったかの真面目な上官が、おだやかに微笑んでいた。それからくしゃりとやわらかそうな金髪をなでて、おかしそうになにかを言っていた。頭をなでられた中尉もまたうれしそうにたのしそうに笑っていて、私は、あなたの妹さんの髪がきれいなら、あなたの髪だってきれいにちがいないのに、と場ちがいな文句を声にしないでつぶやくしかできなかった。
「あと、きょうさ、少佐の訓練にまざりにいけなかったよね、ごめんね」 「……、べつに、そんなの」
つんとした返事に、中尉はすこしほほをふくらませる。意地をはるなってことかしら、でも、本当にそうじゃない。あのあと、はっとしたようすのハルトマン中尉がぱっと私から手をはなしてすぐそこの自分の部屋のなかへとにげていって、そしたら私だってしばらくはなにをする気にもなれなかった。中尉の真似をして自分の部屋へとにげかえって、それからずっと、私はあなたのことばっかりかんがえていたんだもの。少佐の訓練のことをいまやっと思いだせたくらいに。いざ自覚すると、じわじわとその事実が実感されていく。私にとって大事な大事な、坂本少佐との訓練。
(どうして、せっかくの、少佐との)
そうだわ、あなたがあんなへんなことをするから、私は。文句ならいくらでも思いついた。だけど、あっさりと坂本少佐のことを意識のそとにおいてしまえていた自分にそんなことを言う権利なんてないにきまっていた。私は、自分がこんなに薄情だなんてしらなかった。
「……わたしには、妹がいるんだけど」
唐突な話題。私はふっと息をのむ。夢のなかにいるようだったときのうわ言とおなじことばがいままたくりかえされて、私は急にこわくなる。なんの話をする気だろう、いやな予感が頭をもたげて、でもいったいどんな話がいやなのかまでは皆目見当がつかない。
「今朝にききました、きれいな金髪の、よくわからない顔をする」 「……うん」
中尉はちいさくうなずいて、しゃがみこんでいるひざをかかえて、私を見た。のびてくる指先、あのとき私の手にふれていたあたたかいそれが、こんどは私の毛先にからむ。どうしてだろう、やめてとはらってしまえばいいのに、私はそうされるのがうれしいかのような錯覚におちいってしまうのだ。
「こんなふうに、きれいな髪をしてるんだ」 「……それは、ご自分のことをほめてらっしゃるんですか」 「えー、まあ、そうともとれるよね」
くすくすと笑い指先は私の髪をもてあそぶことをやめず、私はひどく緊張していた。原因はわかっていた、わかっているんだけど、絶対に認めたくない。
「そんなに妹さんが恋しいなら、会いにいけばよろしいんじゃなくて?」
つきはなすことば、そうきこえるようにそう言ったその台詞だったけど、中尉の指先がかすかにふるえてぎくりとした。だって、まさか相手がこたえるとは思ってもみない。私は、いまそんなにひどいことを言ったの。いまにも固唾をのみそうなほどに身をこわばらせた、ばかみたいに緊張して、そのうちにハルトマン中尉は言うのだった。わたしは、ウーシュにきらわれてるから。 ふしぎな台詞だ、だって、このハルトマン中尉が、まるでだれからも無条件であいされる才能をもってうまれたかのようなこのかわいいひとが。
「ウーシュは、すぐになくんだ、わたしといっしょにいたら」 「……おかしいわ、そんなの」 「……」
うれしいな、なぐさめてくれるの。いつものとおりのからかう口調、それなのに、私は全然おこれない。ハルトマン中尉は、自分でおかしいと思わないのだろうか、先程はすぐになくというバルクホルン大尉のことをあんなにしあわせそうに語っておいて、こんどの話では、すぐになかれてかなしいだなんて。 きゅ、と突然手がにぎられた。今朝のそれと、まるでおなじのうごき。あいかわらずてのひらはあたたかくて、ひしひしといやな予感が胸につのっていく。やめて、言わないで、そんなこと、言わなくてもいいの。
「ごめんね、あんなことして。ペリーヌの言うとおり、わたしっておかしいんだ」
ごめん、ごめんね。ききたくないことばが、なんどもなんどもくりかえされる。ねえ、あやまるということは、あれがあやまちだったということなんでしょう、私は、ただのあなたの妹のかわりだったということなんでしょう。言えないことばをのみこんで、せめてもの非難の気持ちをこめてそのてのひらをにぎりかえした。
「……おかしいんだ、わたしって」
つぶやきはくりかえされて、私は呆然とするしかない。もしいま私がないたら、あなたはしあわせそうになりますか、それとも、かなしいと言いますか。見当もつかない、ひょっとしたら、全然ちがう顔をするかもしれない。こたえが見えなくて、こわくてこわくて、私はいまにもこぼれそうになるしずくを必死にこらえていた。
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