彼女は不思議な夢を見た。
不思議な、といっても異世界を思わせる混沌とした風景や見たことも無い怪奇的な生物が出てくるとか、
あるいは自らが一匹の巨大な虫になっていただとか、そういう類の不思議さではない。
そもそも夢を見た、という表現も当てはまらないのかもしれない。目に映るものどころか、何かを見て
いるという意識すら無いのだから。

(ここは、どこ?)

温いミルクの海の波間をたゆたうような、春の日のひかりをたっぷり浴びた羊毛に包まれているような。
その世界のイメージを例えて言うのならばそんなものだろうか。
暖かくて、少しだけベージュがかった白で、とてもやさしいその世界は

(やっぱり、どこでもいいわ)

だって、「しあわせ」だもの。
ただひたすらに自分を満たす感覚がひどく単純なそれであると気づくと、彼女はそこで考えるのをやめてしまう。
だってしあわせなのだから。
いっさいの考えごとをその中に浸してしまうと、ふと聞こえてくるものが―これははっきりと聞こえたのだ―ある。

(おかあさま?)

ふわりと、スポンジケーキを焼き上げた時に似た甘い匂いと一緒に漂ってきた旋律は、触れれば崩れてしまう
雪の結晶のように繊細な、彼女の父のピアノタッチから生まれるものではない。

(お母様の、子守唄だ)

幼子の頬をまあるく撫でるように柔らかい母の奏ではいつかの夜、窓を叩く吹雪の唸りに怯える幼い彼女の
心を安らげた揺籃歌だった。
温もりと、微かな甘い匂いと、大好きな音楽にすっかり身を任せていると、次第に意識が輪郭を失って溶け
出していく。

(それにしても)

手放した思考が広がってぼやけていく中で、たった一つ、小さな泡が立つ。

(どうしてこんなにしあわせなのかしら)

沸き立った疑問が弾けるのと同時に、彼女の意識も夢の世界に融けて消えた。




「起きたか?サーニャ」

何事かもにゃもにゃと呟くように唇を動かしてから、さも重たげに瞼を開いた少女の名を慈しむように呼ぶ。
エイラの足の狭間に頭を預けているサーニャの瞳は未だに焦点が定まらない。やっとの事でとでも言うように
重々しく、瞬きを一つ。

「…おかあ、さま?」

平生、彼女の翡翠の瞳に静かに瞬く意志の光は夢の世界に置いてきてしまっているらしい。
再び開かれた薄い瞼から覗く翠玉に映っているのが自分ではないと知ると、エイラは我知らず微笑みを零す。

(かわいいなあ)

エイラの頬を緩ませたのは、彼女がサーニャの傍にいる時、度々彼女を襲う正体不明の強烈な引力ではない。
もし今エイラの心に射した仄明るい灯火があの甘い電撃にも似た衝動なら、彼女の心も身体もすっかりと
萎縮させてしまうはずで。
眼下の白く柔らかな頬に、それに劣らぬ白磁の指先が伸ばされはしなかっただろう。

(…あたたかい)

上質の絹の手触りを楽しむようにゆるゆると頬を撫でる手の平のぬくもりに、サーニャは遠くもない既視感を覚える。
つい先ほどまで自らを満たしていた、この暖かさは、なんという名前だっただろうか。そして、その手の持ち主は。

(えいら)

声には出さず呟いたその名前こそ、何時抱いたか、知らぬ間に脳裏に燻っている問いの答えそのものだという事に
彼女は気づいていない。
ただ、頬を滑る手の持ち主の顔と呟いた名が重なった瞬間、茫洋とした眼差しを向けていた瞳は驚きの色に染まって
丸くなる。

「・・・エイラ?」
「ん、おはようサーニャ」

へらりと降ってきた微笑は、時を経て少しだけその煌きを鈍らせた陽の光よりも深く確かにサーニャの胸の内に
届いて、アンティークランプのようにじんわりと優しい熱を燈した。
しかし彼女の頬、あるいは細い指先のかかった瞳、唇の端は既にあたたかい毛布に包まれているようだったので、
胸の奥から伝わってきた熱を酷く持て余してしまう。

(あつい)

その場所がついには甘い疼きを孕み始めたのに耐えかねて、サーニャは自分にだけ許された枕の上から身を起こした。
のろのろと現れた黒い背中に、エイラは相変わらず慈愛しか含んでいない微笑をこっそりと唇だけに滲ませる。
無論、目の前の小さな背中のほんの少し向こう側、ただただ無条件の安らぎを甘受していたその場所に桜色の細波を
立ててしまった事など、ほんの僅かほども考えていないのだった。
だから、ゆっくりと振り返ったサーニャの、眠たげに伏せられた睫の下に、自らの鈍感さを責める非難の色が微かに
浮かんでいるのにまるで気がつかない。

「ねむくないかー?」

そうして一片の下心も無い声音をサーニャの耳に沁み込ませて、親猫が子猫にするように額を寄せる、残酷な仕打ちを
してみせる。
目の前一杯に広がる、緩やかな弧を描いた薄桃色の唇、意図でない愛しさを色深く映した紫藍の眼、淡い銀の輝きを
放つ亜麻色の前髪、ほんの少し前に通り過ぎてしまったどこかを思い出させる肌の、白。

「・・・ばか」
「へっ?」
「・・・ねむい」
「え・・・うわっ?」

そのまましなだれかかるようにエイラの肩に頭を預けたサーニャは、耳の横から聞こえてきた上擦った声音に満足を
覚えて、怠惰に目を閉じる。
さりげなく吐かれた暴言などすっかり頭から飛ばしてしまったエイラの、サーニャ起きろよ、ベッドで寝ろよ、などと
いった間の抜けた抗議を受け入れるつもりは勿論無い。
エイラに対して猫のように強かな所のある彼女は、ほんの少し待てば望みの一言が与えられる事を十分に理解していたから。

「…今日だけだかんなぁ?」

はぁ、と嘆息とともに吐き出された言葉を聞くと、頷くようにサーニャは額を緩くこすり付けた。

「しょーがないなぁ、もー」

子供のような、だがとてつもなく現金なその仕草に諦めたように呟いてから、エイラはあやすように背中を撫でてやる。
目論見通りの成果にサーニャは、まだぶつぶつと何事か言っているエイラから見えないよう、口の端を上げた。
同時に、夢の世界から持ち越した燻りが、ふっと導かれた解にさらわれて消える。

(ああ、だから)

今、彼女を包む感覚の正体。一度は融けて消えてしまったそれが、再び訪れた理由。

(だから、しあわせなのね)

ようやく辿り着いた答えに甘えるように頭を摺り寄せると、サーニャは一度後にした幸せな夢の中へ再び落ちていった。


おしまい



れんじろーさんからお誕生日にいただきました スレに投下しろと再三申し上げたのですがいいの一点張りなのでこちらに
すばらしい、すばらしすぎる。すばらしすぎる…!ほんにアンダークラスのヒーローさんはいい表現を使いなさる…!!
ありがとう、ありがとう、ありがとう!ミナラスカタンシヌア!!

せめてものお礼にこっそり挿絵ちっくなものをかかせていただきました



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